『瀧口修造 夢の漂流物』展(世田谷美術館)

2005年03月27日 22:16

 瀧口修造の展覧会、『夢の漂流物』(By 世田谷美術館)。彼の詩作はシュルレアリスムの時代を反映していて、個人的にはスフィンクスのことを歌っていた作品と、色彩の歌(特に黄色を詩にしていたところ)が素晴らしいと思ったのだけど、それ以上に、彼自身の絵画作品には惹かれるものがあった。
 青と黒と赤と白と…樹木と岩を思い起こさせるような小さな絵に込められた夢。あるものは夜を、あるものは樹氷を、あるものは朝焼けを。鮮やかな色彩と光景が小さな小さな窓からのぞいている。情念の一切が排除されているから、尚更美しいと思えてくる。ただそこに拡がっている世界…。
 ブルトンとか、ランボオとか、ホアン=ミロとか、駒井とか、好きな作家・芸術家・詩人の名前もたくさんあった。「よく集めたなぁ」って感もあったけれど、でもやっぱり瀧口自身の作品が興味深いのではないかなぁ…?
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コロセウムに寄せる瞑想① (stzs.128-129)

2005年03月26日 00:21

(『チャイルドハロルドの巡礼』第四巻から)

幾重にも重なり合う迫持(せりもち)!
ローマが、歴史の系譜の大事な戦利品をかき集めながら、
ある壮麗な建物の中に、すべての勝利を打ち立てようとするように、
ローマのコロセウムは立っている。月の光は煌いている、
光は聖なるものなはずだから。永きに渡って切り開かれた、
無尽蔵の、瞑想の宝庫に光を注いでいるのだもの。
それからイタリアの夜の、紺碧の憂鬱――
深い空が装うものは、

言葉を持ち、天についてあなたに語りかけてくる色彩――
紺碧の憂鬱が、この大きな瞠目の建物の上に漂う
その栄華を映し出す。〈時〉に屈してしまった地上のものに
施される気配は只ならぬもの。そして
〈時〉はその手を振りかざしたけれど、自分の鎌を壊しただけだった。
壊れた胸壁の内側に、力と魔力が宿ってる。
だから、現代の宮殿なんて、その華やかさが見劣りしちゃって、
歳月が価値を高めてくれるまで、待たなくてはいけないだろうね。

Cosi Fan Tutte!

2005年03月24日 01:34

久しぶりの新国立劇場で、cosi fan tutteを聴きました。

フェルナンドさんの歌と、デスピーナちゃんの歌が、特に素敵でした☆いつもながら、モオツァルトさんのオペラは楽しい気持ちになりますね!重唱がやっぱいいなぁ…☆

「グッド・バイ」、志賀高原。

2005年03月22日 19:29

 かなり理由も不明瞭なまま、強制的に志賀高原に連行され、不得手なスポーツ(しかも無謀にもスノウボオド)をし、話す相手もないまま(小学生やら中学生ではお話にならないし、よしんばお話になったところで彼らが可哀想。どうも説教臭くなって不可ない。)、再び太宰にどっぷり漬かった二泊三日の休日労働。新潮文庫版『グッド・バイ』を連れてったのが運のツキ。

 敗戦から60年。
 この小さな文庫に収められている作品の中で、どれもよかったのだけど、『苦悩の年鑑』などは、どことなくRimbaudの『Une Saison En Enfer』にも似た書き口で、太平洋戦争と当時の日本社会の移り身の速さに驚きを隠せないし、作者の困惑もよくわかる(気がする)。『饗応夫人』は、読んでいて切なかったです。『グッド・バイ』は、未完だけに、続きが気になるところ。実は読んでいて思わず吹き出しそうになったところが多かった…それだけ人生の滑稽さを強調しているってことなんだろうか?『人間失格』で「廃人は喜劇名詞」と言い切った語り手を彷彿とさせてしまう。『薄明』は、戦争の残忍さが荒涼と描出されていたのが印象的だった。
 共通して言得ることは、読後感がもの凄い。半端じゃない。太宰の文章に夢中になってしまうのは、こういう魅力(魔力)があるからではないだろうかと考えてしまった。個人的に、作品の含有する切なさ・哀愁を自分の中に採りこんでしまいたい気持ちがある。

 スポーツに不向きな私は、早々に体力を使いきり、さっさと普段着に着替え、再びゲレンデの休憩所兼ボッタクリレストランに入り、ホットカルピス(\200)をすすりながら、太宰を(きっと神妙な面持ちで)読んでいたら、同行した、私と仲良くしてくれている美少年が寄ってきて、「何これ?」と言って、私の『グッド・バイ』をぺらぺらやった。
 平成ボウイ14歳にはどう見えたんかなぁ~?(笑)
 まだ難しいかもね。チョット早いかもね。もう少しお兄さんになったら読んでほしいかもしれない。

 それにしても、太宰にしろ、中也にしろ、小林秀雄にしろ、あの人たちの日本語は美しいネ。ああいう感性はどこへいってしまったんだろうかしらと思います。
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第一の運命の女神、マンフレッドを擁護(Act2.sc4.ll51-72)

2005年03月22日 00:21

眼には見えない精霊たちの支配者!
この男は只者じゃないのよ、
ここでの彼の身構え方と装いで判るじゃないの。
彼の苦しみは不滅の自然の類だわ、私たちのと同じように。
彼の知識や力や、そして意志は、
霊妙な要素をふさぎこんでしまうような、
また、土塊と合致してる限りは
土塊がめったに生み出すこともないもの。
彼の熱望は地上に棲むものの域を越えてきた、
しかも連中が彼に教えたことは、私たちの既知の事実だけだった――
つまり、知識は幸せではないし、
学問はある意味無知なんだから、
無知を思い知るだけにすぎないってこと。
でもこれでおしまいじゃないのよ――
彼の精神(こころ)は大地と天とに帰するもので、
どんな力も存在も生き物でも、上級蛆虫からは逃れられないけど、
彼の只ならぬ熱意がその精神を貫いてきたわ。やがて結果として
そんな熱意が彼を、憐れみってあるのねぇ、なんて
憐れみを知らない私が思うくらい、憐れみだらけにしてしまった。
彼は私と同じ、そしてあなたがたとも同じ、たぶんね――
そうであってもなくっても、この王国のどんな精霊だって
彼みたいな魂は――彼の魂より強い力だって――持ってやしないわ。

The Dancing Satyr

2005年03月13日 00:48

 井上究一郎氏の『アルチュール・ランボーの「美しき存在」』という本があった。半年くらい前に拝読したのだが、この書物のなんと最初のページに『サチュロス』(ポンペイ秘儀荘の壁画)なる写真があった。…グロかった…。最初見たとき、どう反応していいかわからなかったほどだ。この書物の内容は、簡単に言うと、ランボーの『Illuminations』全体に触れながら、特にその中の一遍、『Being Beauteous』の精霊について言及した論文集だった。で、ランボーの作品の中では、ギリシア・ローマの影響を色濃く見て取れる作品の一つに、『Antique』(古代風)というのがある。私の個人的で貧相な想像では、この「牧神の息子」は、大理石の彫刻で、それが実際に動き出す瞬間を捉えた作品ではないかと勝手に理解している。
 で、そんな『サチュロス』のグロいイメージを持っていた私に、電車の広告が目に入ったのは先月のこと。上野の博物館で、サテュロス像が公開されるという。しかも、なんか写真の彼は、あの写真とはだいぶちがうではないか。
 …というわけで、つい先ごろ、見に行ってきた。
 両手と片足を失ったSatyrは、躍動感に満ち、どこか哀愁さえ漂わせながら、半狂乱になった瞳を失い、その痕跡が更に見る者を魅入らせる。上体のねじれ、筋肉の美しさ…。失われた指先が見れないことが、酷く残念だった…髪の流れも(てっぺんがなくなっちゃってて気の毒。)本当に素晴らしくて、もしこの彫刻家がアテネの像を作っていたら、それはどんなに美しいだろうと思う。誰が何の目的でこれを作ったんだろう? 分厚い唇が少し歪んでいたのは、「生」の含有する悲哀のせい? それにしても、動的な霊感を感じずにはいられない像だったと思う…。夜になって、誰もいなくなったら、失った手足を修復して、独り会場を狂気を満たして踊っていたら、きっと素晴らしいだろうとおもう…。

la dernière mélodie

2005年03月12日 17:55

ゆらめいてゐるのは 風でせうか
ちひさな花は しろくかがやき
すかし模様を さらけだし
金のすな撒く たいように
きゅらきゅらわらふ こゑたかく
ゆらめいてゐるのは 風でせうか

遐ひ 遐ひ 清明節に
紡がれたのは はるのうた
羽衣まとひし 緑茶の馨
遐く 遐く ひるがへり
ちらちらあふれて ゐたのはひかり――

――ぼろぼろと
闇は崩れて すべてを覆ひ
冷えた水には 氷の花
柔らな空気は 深き寂寞の中
八つ裂きにされてしまうのでせうか…

運命の女神の歌 (Act.2.sc.3.ll.34-54)

2005年03月12日 00:20

街は眠って横たわる
朝は、それを深く悲しんで、
泣きぬれながら夜を明ける。
哀愁を帯びてゆっくりと、
どす黒い疫病が降りかかる――
幾千の人が身を落とす。
幾百の人が滅び逝く――
生きている人は大切に想っていた筈の
病人たちから離れてしまう。
誰も何もかき消せない、
死を齎す悪霊の手を。
悲哀と苦痛が、
悪と恐怖が、
国土を覆う――
幸いなのは死人たち、
こんなに惨めな光景を
見ずにすんでいるのだから。――
一夜の作品――
一つの国が崩れ落ち――私たちの成果――
永く私たちは成してきた、そして今また始めましょ!!

音楽堂にて

2005年03月08日 01:17

 中原中也訳のランボー初期韻文詩のなかに、『音楽堂にて』というのがあるが、この原文テクストをざっと読んでいたときは、ランボーの年齢と、この詩の含有する毒舌に、とても楽しく、心惹かれたものだ。(たまに私もオペラなど見に行くときに、思わず感じてしまう、邪で意地悪な眼差しというやつに。)特に、冒頭二連の情景描写はさながら、それに続くブルジョワの皮肉めいた叙述…。そして、最後に眼に飛び込んでくる、若い娘。食い入るような語り手の描出が、夏のシャルルヴィルの街角をよくあらわしているようにも思う。
 中原中也の訳は、どの作品をみても、彼の語学力にまず感服してしまうが、それ以上に、ランボーの作品をどれだけ中也自身の作品へと変貌させているかを眺めてみるのもひとつの楽しみだったりする。冒頭二連は、叙述を淡々と描くが、それから「中也の口調」があらわれてくる三連目、「です」「ます」調の中に潜む哀愁と洗練されてさっぱりとまとめられた日本語が、本当に素晴らしいと思う。
 最後の三連における緊張感は、中也の訳でもやはり鼓動さえ聞こえてくるようだ。どんどん視点がズームアップしていくのは、やはりランボー独特の視点なのだろうが、それをあそこまで見事にこざっぱりとまとめてしまう中也。そして最後、視点から感覚へともちこむ一行も、きっちり中也の言葉になっている。中也の世界とランボーの交流を味わうにはもってこいの作品ではないだろうか?

ウェンベック川に寄せて

2005年03月06日 15:57

あなたの人の絶えた流れはゆっくりと、まがりまがって流れているね。
ウェンベック! 苔むして撒き散らされた岩の合間を、
まだ哀しげな唄を歌っている物想い深い耳の奥へ、
上流の暗い森へ。あぁ! 確かに私は
暗がりの中で親しい土地の精霊たちと出逢ったようだ、
快いそよかぜの中で、ふしあわせな墓標に吹く
悲しみの溜息のような、嘆きの声が聞こえるよ。
あぁ! あなたの静かな光景が穏やかになっている
――旅路に疲れた彼の涙は、あなたに感謝するだろう、
彼が別れを告げようとするときに。
進んでいくと、彼は物悲しい巡礼に迷い込んでしまうかもしれないが、
喜びの満ちあふれた処よ、ときにはあなたを思い出すだろう、
黙想の追憶が、もっと美しい陽の光で
彼の旅路を慰めるその光景を思い出してくれたなら。
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嵐の中の航海の後、ノーサンバーランドのタインマウスにて詠める

2005年03月06日 15:47

とてもとてもゆっくりと、私は崖の切り立つ脇腹を昇ります、
恐ろしい過去の痕跡に充分なほど思いをめぐらせながら。
暗い波の上へと、吠え立つ強い風が乗って行ったとき、
喜び私は振り返り、小石を敷き詰めた岸辺を洗う
静かな潮を眺めています。そうして今、夕暮れの光の筋は
灰色の胸壁のうえへ、時が引き裂いてしまった
むこうのうち捨てられた塔のうえへと微笑みかけているのです。
遥か沖では持ち上げられた櫂が、銀色の煌きに
触れられて、穏やかなうねりは眠っているように見えます。
その景色になだめられて、まさに同じように、嘆きの胸へと
同じような静寂がそっと近づき、嘆きに休むようにと言いつけます。
その間にも、海へと溜息を吐く仄かな風は、憐れな子守唄のように、
優しい別れの最も哀しい旋律を、嘆きに歌いかけながら、
その耳へと注ぎ込みます。
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Tintern Abbey

2005年03月06日 00:52

5年が過ぎ去った。5つの夏が、5つの長い冬を
引き摺りながら! そして再び僕には聞こえる、
心地よい、遥か遠くの囁き声が、
山の泉から流転してくる。――今再び
僕は高く聳える断崖を見詰めている、
その崖が自然のまま手つかずの風景に、
更に深く遮断された思索を、確かにさせる。そして崖は
天空の静寂にその光景を結びつけるのだ。
此処、この仄暗い楓の木陰で、
僕が横になる日が来たのだ、そして眺めているのは
田舎の小さな家が建つ土地、果樹園の木立。
この季節では、果樹園の果実は熟れていないので、
森や雑木林の合間にあっても、その中に埋没しているのだ、
あるいは、果実は青や淡い色なので
自然の緑の風景を掻き乱すこともない。今再び僕が見るのは、
これら垣根の並び、いや、殆ど垣根ではない、伸び放題の
木の小さな列が荒れ果て連なっているもの。これらの長閑な耕地が、
まさにその扉まで緑に染まっている。やがて煙の冠が
立ち昇る、静寂の中を、木々の間から、
朧げな形で。見えないこともない、
家のない森の彷徨える住人たちの煙や、
あるいは隠者が独り、火の傍で座っている洞穴からの煙、
そのように。
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俺がいなければ… (Act2.sc2.ll164-205)

2005年03月05日 00:19

[マンフレッド](独白)
俺たちは時と恐怖に弄ばれている。日々がそっと俺たちに忍び寄り、
俺たちから何かを掠め取ってゆく。それでも俺たちは生きている、
生活を厭いながら、そして死を恐れながら。
この厭わしすぎる軛のような毎日の日常に――
この背負わなければならない重荷、この呪われた生命に――
悲しみに沈み、あるいは悲痛で激しく叩きのめされ、
あるいは苦悶や衰弱のうちに息絶える歓喜に打ち拉がれてる
もがきつづける心臓の上へとのしかかる命の重圧に――
人生に現在なんてないんだから、過去と未来の日常に、
俺たちが死に焦がれてしまう気持を抑えることがどんなにか――
どんなにか少ないだろう、それに冷たいけれど瞬間でしかない
冬の流れから身を引くように、そんな気持も引き下がってしまうんだ。
(中略)
もし俺が生きていなかったなら、俺の愛する人はまだ
生き続けていただろう。もし俺が愛したりしなかったなら、
俺の愛しい人はまだ美しいままだっただろうに――
しあわせに、しあわせを振り撒きながら。彼女はどうしてる?
今はどうしているんだろう? ――俺の罪のために苦しんでいる――
俺が敢えて考えないものとなり――じゃなきゃ「無」になってるさ。
わずかな時間でさえ、俺は無駄に呼び覚ましたくない――
この期に及んで俺は自分がそら恐ろしい。
この期に及んで、俺は善悪に関わらず、
精霊を見詰めるとなると怯んでしまう――ほら、俺は慄き、
俺の心に妙に冷たいものが拡がっていく。
けれど俺はもっとも嫌なものでさえやってのけてやる、
人間の恐れるものと戦えるんだ。――もう夜だ。


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