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中原中也 「春の日の夕暮」に寄せて

2005年11月05日 20:44

<中原中也 「山羊の歌」初期詩篇から>

 【春の日の夕暮】

トタンがセンベイ食べて
春の夕暮れは穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮れは静かです

吁!案山子はないか―――あるまい
馬嘶くか―――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするままに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍は赤く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これからの春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです


「春の日の夕暮」という、叙景詩に近いような叙情詩について、気になったところを順に書いてみます。――

 ①「トタンがセンベイ食べて」というのは、春の日差しの中で、温まった空気が冷気へと移るのを感じて、トタンが(家鳴りに似た形で)ぱりぱりいっているのを表現したのではないかしら?
 ②「アンダースローされた灰」は、夕暮れの橙色の光が反対側の空に舞う青い闇によって、変色していく世界、対比的な色彩感だと思います。
 ③「月の光」に従順な春の日の夕暮。月が光りたい、ヌメランとするままに、自分の光を失わせてゆく「日の夕暮」。
 ④「野の中の伽藍」が紅いのは、勿論夕焼けのせいだとは思うのですが、それなら、尚更に前に出てきた「蒼」との色彩は対比的です。「荷馬車の車輪」は油を失い、もはや廻らなくなってしまう。案山子もいない、馬も嘶かなくなった今、全体は静寂にとりかこまれてしまっています。その静寂の中で、語り手(=「私」)が「歴史的現在に」物を言う、つまり現在を点と捉えて、現在語り手のぽつりと言った言葉などは、あっというまに消えてしまう。人の儚さのようにも見えます。その対比的に描かれているのが、次の行の、「嘲る嘲る 空と山とが」という自然だと思います。
 ⑤「瓦が一枚はぐれました」というのも、夕闇へと消えてゆく屋根の影が夜に飲まれていく様子なのかな、と考えました。音のない世界で、夕暮は「自らの静脈管の中へ」前進する。殆ど動きのない、静かな水辺の中へと沈んでいく夕日が、まさにランボーが「太陽と溶け合った海」と表現したような、沈んでゆく夕日は、中也には「自らの静脈管」に前進する夕暮という表現を提示させたのだと思います。
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