棄てられない赤ン坊

2006年03月07日 01:28

 中也の秋が「錯乱」ないしは「狂乱」であるなら、春は「憧憬」の季節かもしれない。暖かな日差しの中で、金色の風を肌に感じ、鈴の音や雲雀の声が空高く聞こえ、煙草の煙が空に消え……。中也は春をたくさん描いたけれど、春の空気の柔らかさの中で、子供の声が花畑にこだましているという、リアルではありえない世界を描いていた。これは本当に夢の世界。

 『在りし日の歌』に収録されている「春と赤ン坊」「雲雀」の二編は、連作ともいえるほどに同じ情景を描出している。菜の花畑で眠っている赤ン坊。空で鳴るのは、「春と赤ン坊」では電線、「雲雀」では電線と雲雀。「春と赤ン坊」で、薄紅色の風を切って、走っていく自転車は、まるで赤ン坊を菜の花畑に棄てて走り去っていくよう。「雲雀」で歩いていくのは菜の花畑自体。でも、どちらも菜の花畑に赤ン坊を置き去りにしているかのように、去っていこうとしています。

 自転車も菜の花畑も、赤ン坊を棄てたくないのでしょうか。私は棄てたくないんじゃないかと思う。というのは、赤ン坊はすやすや眠っているのです。春の薄紅色の風の中で、電線の音が響く中、雲雀が鳴いている中で、眠り続けているのです。風を切って進んでいく自転車は、赤ン坊を無理やり振り払おうとしているように見えるのです。青い空の下。

 中也の『山羊の歌』には、詩人を想起させる子供の思い出のような詩が、いくつかおさめられています。それが、『在りし日の歌』になると、詩人の亡くなった息子を思い出させるような追悼の歌もいくつかあります。どちらがどちらという訳ではなく、これはむしろ詩人自身の子供時代と詩人の息子のイメージが重なり合って見えてくるように思えるのです。

 どちらにせよ、「春と赤ン坊」「雲雀」の二編には、振り払いたくても棄てきれない赤ン坊が、春の柔らかい風の中で、すやすやと眠っていて、語り手はそのイメージをのどかな風景の中に閉ざしてしまおうとしているのではないでしょうか。

 中也の春は、こころを穏やかにしたくても、憧憬がまとわりついて穏やかにはいられない、そんな美しい季節なのではないでしょうか・・・・・・?
【春と赤ン坊】(中原中也 作/『在りし日の歌』より)

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
――赤ン坊を畑に置いて


【雲雀】(中原中也 作/『在りし日の歌』より)

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜りこみ
ピ-チクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あ-をい あ-をい空の下

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?
関連記事


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://sousleau.blog5.fc2.com/tb.php/216-5d3318e3
    この記事へのトラックバック


    Articles