花のたましい

2006年04月04日 00:14

hananotamasii

【花のたましい】 金子みすず作

ちったお花のたましいは、
みほとけさまの花ぞのに、
ひとつのこらずうまれるの。

だって、お花はやさしくて、
おてんとさまがよぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
ちょうちょにあまいみつをやり、
人にゃにおいをみなくれて、

風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、

なきがらさえも、ままごとの
ごはんになってくれるから。
under pink blossoms

 初めて触れた金子みすずの詩は、この「花のたましい」が最初でした。バイロンは、「開ききった花など、誰が見向きするものか」と、『チャイルドハロルドの巡礼』第三巻の冒頭部分で言っていますが、みすずさんのこの詩は、まさに開き切った花に目を向け、さらに朽ち果てた花の残骸にさえも、見詰めています。
 この詩に初めて触れたとき、まだ16だったので、単純に「この花のように生きたい」と思ったりしていました。(ぁぁ、あの頃が懐かしい/笑)誰かのために、生き抜くということが素晴らしいと思っていたのです。
 今、既にみすずさんの亡くなった年齢を超えて、この詩をあらためて見ると、誰も彼もにふりまわされて生きた、優しい花の無残な末路、というようにも思えます。
 語り手は、純粋に花の優しさを歌っています。それなのに、後味が悪い。「おてんとさま」「ちょうちょ」「人」「風」そして語り手(「ままごと」)にふりまわされて、主体を喪失した花には、何も残らない。「みほとけさまの花ぞの」に生まれることが、その宿命なのです。
 人間の人生なんて、そんなものなのかもしれません。誰も彼も、他人に振り回されて、主体なんてあるのかと思うほど。その痕跡は、無(何ものこらない)なのでしょうか。

 春の嵐の中で、春の強い風の中で、黄砂にまかれながら、その身を散らしていく桜たち。彼女たちの骸は、現代にあっては、アスファルトの上ですすり泣いているように思えます。春の光に導かれて、魂はみほとけさまのもとへ向かっているとしたら、空には幾千の花の魂が舞っているように思えます。
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