猫の眼の中の時刻

2009年05月15日 21:55

4月の新宿09の2
時計  ボードレール作

 中国人は猫たちの眼の中に時刻を見る。
 ある日、南京の郊外を散歩していた一人の宣教師が、時計を忘れてきたことに気づき、小さな男の子に、いま何時であるかと尋ねた。
 <天帝の国>のわんぱく小僧は初めためらったが、思い直して、「今すぐ教えてあげます」と答えた。間もなく、彼は腕にたいそう肥った猫を抱いて戻ってきたが、よく言うように、猫の白眼を見つめながら、「まだきっちり正午ではありません」と、ためらわずに断言した。それは正しかった。
 私はといえば、彼女の同性の誉れでもあり、私の心の誇りでもあり、私の精神の香りでもある、麗しの<猫姫>、いみじくもかく名づけられた女の方へと身を屈める時、夜であろうと、昼であろうと、全たき光の中であろうと、光を透さぬ陰の中であろうと、彼女の愛らしい眼の奥に、私はいつもはっきりと、時刻を、いつも同じ時刻を、広漠として荘厳で、空間のように大きく、分や秒の区分のない一つの時刻を見る、――時計の上に刻まれぬ、不動の時刻、それでいて、溜息のように軽やかで、目の一瞥のように速やかな時刻を。
 そしてもしも、この甘美な文字盤の上に私の眼差しがじっと止まっている時、誰かうるさい奴がやって来て邪魔するなら、もしも、どこかの無作法で料簡のせまい<精霊>、誰やら間の悪い<魔物>がやって来て、「そんなに念を入れて、何を見ているのかね? そのひとの眼の中に何を探しているのだね? 時刻でも見えるのかね、いずれは死ぬ身の浪費屋、怠けものよ?」などと私に言おうものなら、私はためらわずに答えるだろう、「そうとも、時刻が見える。時刻は今<永遠>だ!」と。
 さて奥さん、これこそはまさに賞められるねうちのある恋唄、その大仰なあなたご自身にもひけをとらぬ恋唄ではないでしょうか? 本当のところ、私はこの気障な口説の刺繍をしながら大いに楽しんだものですから、お返しにあなたから何をいただこうとも思わぬしだいです。

  (阿部良雄訳『ボードレール全詩集Ⅱ 小散文詩 パリの憂鬱他』筑摩書房[ちくま文庫]、50-51頁より抜粋)


<猫姫>とは、「猫の」という形容詞を名詞化して女性の名にあてがったものだという注がありました(442頁)。中国のひとは猫の眼に時刻を読む、語り手は<猫姫>と呼ばれるものの眼に静止した時間、永遠を見る。でも、これらは最後の一節ですべてが覆されるわけで、とどのつまりは夢が全部語り手によって語られ、形作られ、崩されるわけですね。ランボーもちょくちょくやる技法ではあると思うのですが、第5節でそれが予期できてしまうのがちょっと残念。それでも擬人化には脱帽。

というわけで、最近ボードレールの『パリの憂鬱』を読んでいます。例によってちくま文庫ですが☆
『悪の花』はあんまりしっくりこなかったので、『パリの憂鬱』はしっかり読み込めたらいいなと思っています☆
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