ボードレール「パリの憂鬱」読了

2009年06月07日 04:24

4月の新宿09の9

「ぢあお前は患らつてゐなければ面白くないやうな麻痺状態になつてしまつたのかい? そんなになつてゐるのなら、『死』にそつくりな国へ逃げて行かう――万事僕が呑み込んでゐるよ、可哀さうな魂さん! トルネオ行きの支度をしよう。いやもつと遠くへ――バルチク海の涯(はて)まで行かう。出来るなら人間の居ないところまで行かう。北極に住まう。そこでは太陽の光はただ斜めに地球をかすつて行くだけだ。昼と夜との遅(のろ)い交替が変化を無くしてしまふ、そして単調を――虚無の此の半分を増すのだ。そこでは長いこと闇に浸ってゐられる。北極光は僕等を楽しませようと思つて、時々地獄の花火の反射のやうに薔薇色の花束を送つてくれるだらう。」
 遂に、突然私の魂は口を切つた。そして賢くもかう叫んだ、「そこでもいゝわ! 此の世の外なら!」

   (富永太郎『現代詩文庫 1006 富永太郎』思潮社、1975年、42ページより抜粋。)

富永太郎詩集 (1975年) (現代詩文庫〈1006〉)

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)
(1998/05)
シャルル ボードレール

商品詳細を見る
引用は、富永太郎による「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」の日本語訳です。正確な訳かどうかは別にして、ちくま文庫の『ボードレール全詩集Ⅱ』で「パリの憂鬱」を読み始めたときから、富永の訳でまずは記事にしようと思っていましたので。やっぱり、戦前のことばの使い方がいいですねぇ~☆ちょっと陶酔☆

引用箇所にも見受けられましたが、ボードレールの想像力と「常に鏡を見ているような」自我との対峙は、作品の随所に見られました。26番「貧しい者たちの眼」の第2段落、18番「旅への誘(いざな)い」など。貧困のうちに夢みる世界旅行。夢のような世界がどこまでも広がっています。

擬人法も多く、21番「誘惑」では3体の悪魔が登場しますし、あちこちに擬人化された悪魔がでてきました。

何でもランボーに関連付けてしまうのはどうかとも思いますが、あちこちにランボーに与えたと思われる痕跡がいっぱいあって、「見者の手紙」の中でランボーが「[…]ボードレールこそは第一の見者であり、詩人たちの王であり、真の神なのです。もっとも彼はあまりにも芸術家的な環境のなかで暮らしておりましたが。それに、あれほどまでに褒めそやされている彼の形式も、みみっちいものでしかありません。未知なるものを創りだすのには、さまざまな新しい形式が要求されるのです。」(宇佐美斉訳『ランボー全詩集』筑摩書房[ちくま文庫]、1996年、462頁。)と述べていることについて、見者とは想像力をことばで形作る者であるならば、確かにそれはあたってるなーなんて、思ったりしました。ただ、ランボーの『イリュミナシオン』に較べると、まだまだ形式が古典的で、バイロンに近く、型破りまでは行かないと述べられているのも納得です。

ある意味、19世紀の詩人たちは、ボードレールやランボーに限らず、恐らくは古典的手法からの脱却をあらゆる形で試みたにちがいありません。そして、ボードレールの場合がいかなるものであったかが、「パリの憂鬱」を読むことで、ちょっぴり感じられた次第です。
関連記事


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://sousleau.blog5.fc2.com/tb.php/581-b1855165
    この記事へのトラックバック


    Articles