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馬場あき子『鬼の研究』読了

2009年07月04日 21:49

4月の新宿09の13

鬼の研究 (ちくま文庫)

凝り性の私が、『ぬらりひょんの孫』の牛鬼にハマって、それでおしまいのわけがない…。先月の中ごろ、神保町の三省堂書店をふらふらしていたときに、思わず即買いしてしまいましたじーっ『鬼の研究』読了しました☆

ちょっとこの本はすごいです。
何度もあちこちで再版されてきたのもうなづけます。

牛頭鬼と馬頭鬼のことも、一つ目のことも、天狗のことも、一通り網羅されているばかりではなかったです。

最初に興味を惹かれたのは、斉明天皇崩御のときに朝倉山に出た傘をかぶった鬼のこと。
このエピソード自体は勿論知っていましたが、この鬼のことを土着の人々(山に住む先住民族)と読み解くのは目から鱗でした。

また、(浅学のために能のことはあまりよく知りませんが)「黒塚」のエピソードは美しすぎます。

[…]境涯的詠歌は、当然のことながら華麗な過去の栄華へ、あるいは婀娜たる昔人の面影へと回想の糸を手繰りはじめるのである。<黒塚の女>ももちろんそうした経路をたどらざるをえない。回想は甘美で、賀茂の祭や日蔭の糸の冠、糸毛の車、糸桜、夕顔の宿、花すすき、待つ宵、秋月、とくりひろげられ、糸づくしのことばのほぐれるままに女の過去がほぐれ、また紡がれてゆく。それらの華麗な物語りの背後には、一枚の扉にへだてられて、膿血したたる閨があり、腐爛した膚は臭気を放つという男の屍が折り重なっているのである。それは、現実に殺害した男の肉体というような猟奇的なものではなく、女の、傷つけ傷つけられた情念の贄である。(261頁より抜粋。)

ペローの「青髭」のような空間配置で、背後に異性の躯の山があるのは同じですが、まったく比べ物にならないほどの象徴読解です。「猟奇的なものではなく」永遠に孤独を彷徨う鬼としての人間は、むしろアン・ライスの『ヴァンパイア・レスタト』のレスタトが見た孤立した城に封じ込められた死体の山のような印象を受けます。

もうひとつ、山姥の哲学。

[…]たしかに、山を拠点として生活を営むという現実を認める以外には、それを鬼といわれようが何と呼ばれようが、関係ないのが山姥なのである。まったく世俗・世評と隔絶された独自の世界に、独自の世界観を育てつつ生きてきた人々なのであった。[…]山姥のもつ世界観、山姥のもつ哲学は、したがって、世俗の塵にまみれつつそこよりの脱出と回生を希った悲憤の般若とは、まったくちがう。山姥はながい時間のなかで、ひとつひとつ、生きることに不必要なものを理念のなかから捨て去ってゆく。[…]そこにはかならずや自然と一体になった悟りの世界などがあるのであろうと。[…]善もなく、悪もない世界、いっさいが澄み切ってしまった山の空気や、巌や、植物の発する清冽な香りだけの世界、それが山姥の世界なのだと。(282-283頁より抜粋。)

以前見たやなぎみわの写真に、森の中でひとり恍惚としながらも琴をかきならす老婆の姿を写したものがありました。その老婆の姿と、おそろしいほどぴったりとしたイメージが浮かびました。イギリスの魔女にも通じるものがあるかもしれません。

牛鬼の漂わせている哀愁がことさらに加速していくような感じを覚えながら、もうなんだか鬼の世界がほんとうに美しい自然のなかに在るのね、と思うと、今では日本全国津々浦々まで道路や民家が触手を伸ばしている現在、生きにくくなっているのだろうなぁと切なくなりました。
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