鉛色の輪のかずかずは

2012年09月04日 02:33

その考えはまったく馬鹿ばかしいけれど、空は彼女の抱えている何かを内包している。空が、このウェストミンスターの上に広がる空が。ダロウェイ夫人クラリッサはカーテンを開き、見たのだった。ああ、それにしても何という驚くべきありさま! 部屋の向こうに、年老いた女性がこちらをまっすぐに見ているなんて! 彼女は寝るつもりなのだ。そして空だわ、荘厳な空になるでしょう、美の内側ではその頬に顔をそむけてしまって、すすけた空になることでしょう、と彼女は思った。それにしても、そこには空が、――灰のように、青ざめて、大きな雲が細くたなびいて疾駆していった。目新しいことだ。風が立つ。部屋の向こうで、彼女は寝るつもりだ。あの年老いた女が動き回り、部屋を横切って窓のそばへやってくるのには目が離せない。彼女は私を見ることができて? ひとが客間で叫んだり笑ったりしているときに、あの年老いた女が、きわめて物音も立てずに、ひとりぼっちで寝床へと向かうのは目が離せない。彼女はブラインドを閉めてしまった。大時計の音が鳴り響く。若い男が自殺した。だけどその女は彼を哀れとは思わない。大時計が鳴り響く、ひとつ、ふたつ、みっつ、その女は彼を哀れとは思わない、なにもかもが進んでゆく。ほら! 年老いた女が灯りを消した! 今では家全体が暗くなった、何もかもが進んでゆくのね、とその女は繰り返した、ことばが出てきた。「もはや太陽の熱に怯えるな。」その女はみんなのところへ戻らねばならない。だけど、なんておかしな夜なんでしょう! その女はどことなく――自殺した若いその男と同じような気持ちになった。みんなが生き続けているのに、彼がそれをやってのけて、投げ出してしまったので、その女は嬉しかった。大時計が鳴り響いていた。鉛色の輪のかずかずが、大気中へと熔けていった。もどらなくちゃいけない。集まらなくっちゃ。サリーとピーターを見つけなきゃいけない。やがて、その女は小さな部屋から出て行ったのだった。

(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』より(抜粋)、Shallot B.訳)


はじめ、二箇所だけ、

「空は彼女の抱えている何かを内包している」
(It held ... something of her own in it, ...)
「鉛色の輪のかずかずが、大気中へと熔けていった」
(The leaden circles dissolved in the air.)

のところだけ訳そうかと思ったんですが、御夫君が酩酊の末、リビングでお眠りになってしまったので、私は自室でこうして検分した箇所の半分以上を訳してしまったという次第。(季節の変わり目にリビングでのご宿泊は、いろんな意味でとばっちりがくるので、非常に警戒すべきですが、まあ、仕方ない。そろそろ学習して欲しい今日この頃。)

ここだけピックアップすると、何となくこんな日本の9月の空にもあてはまりそうな描写だと思いましたので。
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